学校のあゆみ

明治時代

1868年(明治元年)
9月、明治維新を迎える
1871年(明治4年)
7月、廃藩置県
1872年(明治5年)
群馬県富岡に官営の富岡製糸場つくられる。
1877年(明治10年)
2月、西南戦争
11月、上田町に第十九国立銀行開業。(後の八十二銀行)
1888年(明治21年)
信越線・直江津―上田間開通。
1889年(明治22年)
大日本帝国憲法公布
丸子町に下村亀三郎が「依田社」(製糸工場)を創立
パリで万国博覧会が開催。これに合わせて、農商務省から委嘱された
5名が蚕糸業事情調査としてフランス、イタリアに渡る。
この一行に、三吉米熊も加わる。その後、一人残り2年間の私費留学を行う。
1890年(明治23年)
小県郡長 中島精一(塩尻村出身・右写真)が蚕業学校設立を提唱。
1892年(明治25年)
●小県蚕業学校が蚕業学校としては全国にさきがけて設立される。
3月、小県郡会によって設立決定。5月、上田町丸堀(現在の上田市立 清明小学校付近)の民家を借りて「郡立小県蚕業学校」開校。初代校長に長野県県属で県下各地で養蚕技術の指導をしていた三吉米熊(山口県豊浦出身・現下関市)が就任。

丸堀時代
明治26年頃 創立当時の全校職員生徒
(上部テントは軒の瓦を隠すためだった。)
1893年(明治26年)
信越線・上野まで開通。
1894年(明治27年)
8月、日清戦争勃発(~28年4月)
1895年(明治28年)
4月、新参町(現在の上田高校)に移る。当時、この敷地内には松本を本校とする長野県尋常中学校上田支校があり、5年後独立して長野県上田中学校となる。
1896年(明治29年)
※同窓会発足。
初代会長に三吉米熊校長が就任。(昭和26年まで歴代校長が就任)

新参町時代の本校生徒・職員

郡立小県蚕業学校校門(現上田高校校門)
1896年(明治29年)
信越線に、地元や諏訪地方の人々の請願により大屋駅開業。関東方面から諏訪地方へ物資輸送の拠点となる。(明治38年の中央線開通まで)
1900年(明治33年)
1月、上田町常入権現坂に校舎が新築され移る。
※長野県上田中学校(現・上田高校)が開校。

このとき、権現坂隣の大字常入捨空寺下に、笠原の常田館製糸工場が創業。(現在の笠原工業)
1901年(明治34年)
郡立小県蚕業学校は、県立に移管となり、校名も「長野県立甲種小県
蚕業学校」となる。
1904年(明治37年)
日露戦争勃発(~38年)
1905年(明治38年)
11月、中央線、岡谷まで開通。繭や女工の輸送盛んになる。(明治44年全線開通)
1906年(明治39年)
5月、日露戦争で活躍した、伊東海軍大将、東郷海軍大将、上村海軍中将の三将軍来校、植樹。後日、乃木陸軍大将来校、
1908年(明治41年)
国立の蚕糸専門学校の設立、上田に決定。
(三吉米熊校長は設立委員として関わっている)
1909年(明治42年)
日本、生糸の輸出量が世界一となる。
1910年(明治43年)
「上田蚕糸専門学校」(現・信州大学繊維学部)開校。初代校長に文部省視学官の針塚長太郎就任。なお、三吉米熊校長、同校の教授を兼務する。
この年、韓国併合。朝鮮と改名このころのわが国の蚕糸業の状況を示したグラフ全国蚕種製造高調べ(明治40年)
世界の生糸生産量を示したグラフ。大日本蚕糸会が英文で作成。1920年(大正9年)

全国蚕種製造高調べ(明治40年)

世界の生糸生産量を示したグラフ。大日本蚕糸会が英文で作成。1920年(大正9年)

時代ごとのあゆみ

長野県上田東高等学校
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