創立・歴史

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三吉慎蔵

初代校長三吉米熊の父・慎蔵は、明治維新の功労者・坂本龍馬と親交のあった人で、有名な京都の寺田屋事件の折、幕吏に囲まれた寺田屋で龍馬と一緒に防戦、危うく二人とも難を逃れ脱出。負傷していた龍馬が材木置場に身を潜めている間、慎蔵は伏見の薩摩屋敷に危急を知らせ、すぐ薩摩藩の救援隊が出動し龍馬を救い出した。

三吉慎蔵は、天保二年(1831年)10月11日長府藩士小坂土佐九郎の二男として生まれ、安政四年(1857年)、三吉家の養子となる。

明治34年(1901年)2月16日亡くなる。享年70歳。

この間、龍馬のほかに西郷隆盛、勝海舟などの維新の功労者たちとも親交が厚かった。

下記の写真左が三吉慎蔵、右が坂本龍馬。

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三吉米熊

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三吉米熊は、旧長府藩士(山口県)三吉慎蔵の長男として万延元年(1860年)6月10日山口県豊浦郡長府に生まれた。

幼少期を長府で過ごした後、明治4年9月、長府藩主の豊浦引き上げに随行する父慎蔵とともに上京した。

上京後、私塾の学校などで英語を中心に学んだ後、明治11年(1878年)3月から内務省勧農局の駒場農学校(東京大学農学部の前身)に入学した。明治13年卒業後も学校に残り、無機、有機化学などを修得して明治14年(1881年)修業した。

修業後の同年11月、米熊は長野県に奉職、当初水質検査などを担当していたが、明治17年頃より県下で蚕病への取り組みが本格化、米熊はその必要性を痛感し、自ら進んでその仕事に加わった。

明治22年(1889年)3月、米熊は農商務省からイタリア・フランス両国の蚕業事情調査の一員に委嘱され渡欧し、パリの博覧会、ミラノ、ローマなど各都市の養蚕業の情況を視察。公費での調査期間終了後も、米熊だけフランスに残り、私費で留学、明治24年帰国する。

翌年の明治25年(1892年)5月、米熊は国内最初の蚕業学校である「小県群立蚕業学校」に初代校長として招かれ、以後36年の長きにわたって校長を務めながら、自らも蚕体病理学、蚕体生理学などを講義し、実習指導にあたった。この蚕業学校には、全国各地から生徒が集まってきた。

また、三吉校長は、明治41年に県下初の国立学校「上田蚕糸専門学校」(現信州大学繊維学部の前身)の設立委員に文部省から任ぜられ、明治44年の開校から同校の教授も兼ねていた。

米熊は中央での栄達の途を自ら拒み、蚕都上田を拠点として日本の蚕糸業の近代化にその生涯を捧げたのである。

昭和2年4月頃から病の床につき、同年9月1日に亡くなる。享年68歳。

法名=「積徳院殿慶端法淳日寛大居士」、従三位に叙せられた。

墓は、出身地の山口県下関市功山寺と、上田市内の鍛冶町の本陽寺にそれぞれある。

上田城がある上田公園内に三吉校長の銅像があります。

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学校の創立

上田東高等学校は、明治25年郡立「小県蚕業学校」として、長野県で最初の実業学校、日本で最初の蚕業学校として設立さた。

当時、小県地方(現在の上田市及び小県郡)は、全国でも有数の蚕糸業の盛んな地域で、特に蚕種製造においては、一大生産地であった。そういった背景の中で、蚕業学校設立の動きが高まり、時の小県郡長の強い働きかけにより、「小県蚕業学校」が設立、開校され、初代校長に、長野県吏で蚕業指導していた、三吉米熊(みよしよねくま)が就任した。

三吉校長は、亡くなる昭和2年までの35年間校長として蚕業教育に取り組み、この間、明治43年開校の上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)の設立にも関わり、同校の教授も兼務、小県地域の蚕業の発展に大きく貢献した。

長野県上田東高等学校
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